
日本企業1,200社を対象に実施されたある調査の結果、約9割の企業が人事データを保有しているにもかかわらず、それを有効に活用できているのはわずか4割に留まるという現実が明らかになった。
「失われた30数年」を経て、日本企業が再び国際競争力を取り戻すためには何が必要なのか。その鍵を握るのが、人材を“資源”ではなく“資本”として捉え、投資をして価値を最大化させる「人的資本経営」だ。
では、具体的にどうすれば“人材=資本”を戦略化し、企業を次のフェーズへと進めることができるのか。慶應義塾大学大学院 経営管理研究科の岩本隆氏に、AIとPDP(People Data Platform)が切り拓く、次世代の経営戦略について話を伺った。

【プロフィール】
岩本 隆(いわもと・たかし)
慶應義塾大学大学院 経営管理研究科(KBS)講師。
東京大学工学部金属工学科卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院応用理工学研究科マテリアル理工学専攻Ph.D.。日本モトローラ、日本ルーセント・テクノロジー、ノキア・ジャパン、ドリームインキュベータ等を経て、2012年より慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授、2023年より現職。「HRテクノロジー」の第一人者として、産業政策の立案や企業の経営改革支援に携わる。著書多数。
誤解だらけの「人的資本経営」と「企業は人なり」
―まず、ビジネスパーソンに向けて「人的資本経営」という言葉を一番シンプルに説明していただけますか?
岩本: 人的資本経営は、英語で言うと「Human Capital Management(ヒューマン・キャピタル・マネジメント)」です。
実はこれ、新しい言葉のように思われていますが、18世紀に経済学者のアダム・スミスが提唱した非常に古い概念なんですよ。
ポイントは人材を「資源(Resource)」ではなく「資本(Capital)」と捉える点です。
「資源」というと、石油のように消費してなくなってしまうイメージがありますよね。
一方で「資本」は、資金を調達して事業を拡大するように、価値を高めていくものです。
つまり、人材を使い捨てにするのではなく、投資をして価値を高め、それによって企業も成長していく。これが本質です。
―日本でも古くから「企業は人なり」と言われてきましたが、それとは違うのでしょうか?
岩本: 日本の多くの経営者は「うちは『企業は人なり』を実践している」と言いますが、実は大きな誤解があります。
松下幸之助が言った本来の意味は、「一人ひとりのポテンシャルを引き出して活躍させ、一人ひとりの成長を通じて企業も成長する」というものです。
しかし、多くの日本企業はこれを「雇用を守る」「首を切らない」という意味で使ってしまっています。
結果として、社員の成長や活躍に本気で向き合わず、単に雇用を維持することが目的化してしまった。そして「お題目化」しているのです。
プロスポーツの世界を見てください。選手一人ひとりのデータを分析し、最大限に活躍できる環境を与えますよね?
それと同じことを企業もやるべきなのに、年功序列の「金太郎飴」のような人事制度がそれを阻害しているのが現状です。
なぜ日本企業は“データ”を持っていても勝てないのか
――今回の調査で、日本企業は特に「目標設定」と「効果検証」が弱いという結果が出ました。なぜここで躓いてしまうのでしょうか。
岩本: 根本的な原因は、日本企業の「属人的人事」と、それを支えてきた「年功序列」の制度疲労にあります。
これまで日本の人事は、勘と経験、あるいは好き嫌いで行われる側面が強かった。
しかし、社員数が何千、何万人となると、経営者や管理職が一人ひとりの能力を正確に把握して育成するのは不可能です。
そこでデータの力が必要になるのですが、そもそもデータを活用する土壌が整っていません。
―9割の企業がデータを持っているのに活用できていない、というのはどういうことでしょう?
岩本: データが「バラバラ」だからです。採用担当が保有するデータ、研修担当が保有するデータ、給与計算システム、勤怠管理システム……これらが全て分断されています。
欧米の企業は、これらを統合したクラウド型の「HCMアプリケーション」に一気に入れ替えて、横串を通して見ています。
しかし日本企業は、既存のシステムを継ぎ接ぎして使っているため、統合的な分析ができない。データを「持っている」と言っても、それはただの「記録」であって、経営判断に使える「情報」になっていないのです。
―なるほど。活用以前に、データのあり方に問題があるわけですね。
岩本: そうです。さらに言えば、ソフトウェア産業の台頭が背景にあります。かつてのモノづくり産業なら、均質な人材を集団で管理すればよかった。
しかし、ソフトウェアやAIのビジネスは、たった一人の天才が数千億円の価値を生み出す「1人ユニコーン」の世界です。
個のパフォーマンスを最大化しなければ、GAFAMのような企業には勝てません。だからこそ、属人的な管理から脱却し、データを基にした科学的なマネジメントへ移行する必要があるのです。
「量より質」のデータ戦略とISO 30414
―データを価値に変えるために、まず企業が整備すべき「最優先データ」は何でしょうか?
岩本: 「スキルデータ」ですね。
これからの経営には「人材ポートフォリオ」が必須です。
将来のビジネスモデルに対して、どのようなスキルを持った人材がどれだけ必要か。現状の社員はどのようなスキルを持っているのか。
このギャップを埋めるための採用や育成(リスキリング)を行う必要があります。
しかし、多くの企業では自社の社員がどんなスキルを持っているかさえ把握できていません。
まずはここを可視化することです。

――データ活用においては「量より質」が重要だと言われますが、具体的には?
岩本: 経営にとって意味のあるデータに絞り込むということです。
プロスポーツなら1万種類以上のパラメータがあるそうですが、企業でそれをやると現場が疲弊します。
例えば、パフォーマンス、ポテンシャル、そしてエンゲージメント(会社との関係性)など、自社の戦略に直結する100〜200程度の指標に絞るのが現実的です。
特に重要なのは「翻訳力」です。単にデータを眺めるのではなく、「このデータが出ているから、次はこういう行動(アクション)をとるべきだ」と、具体的な行動に翻訳できて初めてデータに価値が生まれます。
―人的資本経営の指標として「ISO 30414」が注目されています。これが普及すると何が変わりますか?
岩本: 投資家の見方が変わります。今、S&P 500などの企業価値における有形資産の割合はわずか1割程度で、残りの9割は無形資産、つまり人材力や、組織力などです。
財務諸表だけでは企業の価値が測れない時代なのです。
ISO 30414は、人材マネジメントの国際規格です。これに準拠して情報を開示することは、「うちは人を使い捨てにせず、ちゃんと活躍させていますよ」という証明になります。
単なる開示義務への対応ではなく、自社のマネジメントレベルを底上げする「実践」のツールとして捉えるべきですね。
AI×PDP時代の人事は「管理」から「協働」へ
――今後、AIによる「人材の見える化」は企業にどのような競争優位をもたらしますか?
岩本: AIとPDP(People Data Platform:ピープルデータプラットフォーム)の活用は、これからの企業の生命線になります。
※PDPとは、学歴・職歴・スキル・性格特性・エンゲージメント・メンタルヘルス・キャリア志向など、一人ひとりに紐づく多様な人材データを統合し、見える化・分析できるプラットフォーム。
AIを使えば、従業員一人ひとりに対して「君のキャリアなら、次はこんな研修を受けるといいよ」「今の君にはこのポジションが向いているよ」といったレコメンド(推奨)が可能になります。
これは人間が何万人もの社員に対して行うのは不可能です。
―AIが人を評価するようになると、「冷たい」と感じる人もいるかもしれません。
岩本: 逆です。AIは「人を評価する装置」ではなく、「人を活かす装置」です。
面倒な事務作業やデータ分析はAIに任せればいい。
その分、人間はよりヒューマンな部分、つまり「対話」や「動機付け」に注力できるようになります。これを私は「人とAIの協働」と呼んでいます。
例えば、AIエージェントを「一人の従業員」としてカウントし、人間とAIをどう配置すれば最適なチームになるかを考える。
これからの人事部門やHRBP(HRビジネスパートナー)には、テクノロジー部門と連携しながら、こうした「人間科学」と「データ戦略」を融合させる能力が求められます。
―最後に、読者である経営者やリーダーに向けてメッセージをお願いします。
岩本: 今、多くの企業が「労働組合との調整が大変だ」「システム刷新にコストがかかる」と言って足踏みをしています。しかし、世界は待ってくれません。
人的資本経営は、綺麗事ではありません。
企業の成長エンジンそのものです。「企業は人なり」という言葉を、単なるスローガンではなく、データと戦略に基づいた「仕組み」として再構築してください。
人が育てば、企業は勝手に成長します。データはそのための共通言語なのです。
取材を通じて見えてきたのは、人的資本経営とは単なる「優しさ」の経営ではなく、極めて合理的かつ戦略的な「強さ」の経営であるという事実だ。
9割の企業がデータを持ちながら、それを活かせずにいる現状。それは裏を返せば、データの断絶を解消し、AIという武器を手にすることで、日本企業にはまだ莫大な「伸びしろ」が残されていることを意味する。
「人材を消費する資源から、価値を生む資本へ」。
このパラダイムシフトを、精神論ではなく、PDPという具体的なインフラとAIによる実践論として落とし込めるか。その「翻訳力」と「行動力」こそが、これからの勝者と敗者を分かつ分水嶺となるだろう。





